奄美糖業の歴史 薩摩藩による砂糖増産政策

奄美糖業は慶長十五年(1610年)に始まったとされる。

直川智(直河智)という人物が琉球に貢納品を納めに行こうとしたところ台風に遭遇して中国福建省に流れ着き、そこから持ち出したサトウキビの苗を郷里の大島・大和浜に植付けたのが始まりだと伝えられている。

これに目をつけた薩藩は砂糖の生産を奨励。この時すでに奄美諸島は薩摩の統治下にあり、前年の1609年、薩藩は島津家久の琉球侵攻で奄美五島を琉球から分割し直轄地にした。

まず薩藩は奄美諸島の本土(薩藩)への同化を拒み分離政策を行った。分離政策とは一例を挙げると、奄美諸島民は月代(男の額髪を頭の中央にかけて半月形に削ぎ落したもの)や身なりを本土人のようにしてはならず、名前も本土人と区別するため名字をつけることなどが禁じられた。物質面では薩藩統治当初、租税を納めた残りの砂糖(余計糖)を自由に売買できたものの、徐々に締め付けを強めていった。

延享二年(1701年)には、貢米を全て砂糖で上納することに決め、砂糖1斤(約600g)を米3合六勺(約540g)に換算する砂糖上納制度へと改めた。

1830年には“薩藩の天保の財政改革”と呼ばれる改革が行われ、薩藩は、大島、喜界島、徳之島の三島で生産された全ての砂糖を独占的に買い上げる「砂糖の総買い入れ」を実施するとともに、金銭の流通や個人間の砂糖売買を厳禁とし、違反者には封建制下他国にもほとんど類例のない「抜糖死罪令」で処罰した。

抜糖とは、総買入れ以外のルートに売渡すことで、抜糖した者は死罪となり、それを買った者は遠島に処された。

抜糖以外にも、サトウキビの刈株の高い者や粗悪な製糖をした者は道路修理の罪に処され、少量であっても島民が砂糖を使用・貯蔵することは許されず指でなめても鞭を加えられたという。

また、砂糖の生産を上げるため、水田を潰してサトウキビ畑に変えて他の作物の栽培を一切禁じ、さらに15歳から60歳までの男女を作用夫として耕作地を割当てて職業の選択を許さなかった。

薩摩は奄美諸島を砂糖生産工場にするため、島民の衣食住などの生活必需品を安値で買い込み、島民の砂糖生産能力に応じて配給(物々交換)するようになった。

さらに金銭の流通が認められなくなったことで島民は二重苦の生活を強いられることとなる。

具体的には、余計糖を決済手段とし、薩藩は安値で買いこんだ生活必需品を配給という形で余計糖と高値で決済した。薩藩が1年中の必需品を配給し、翌春の貢糖納付後に余計糖で決済するという仕組みであった。これにより薩藩は利ザヤを稼ぎ、一方、奄美の農家は税糖に続いて納糖が天引きされ、残った余計糖で、生活用品や生活資材を薩藩から買わざるをえない塗炭の苦しみを舐めることとなった。

このような圧政の遠因は、幕府が薩藩に命じた宝暦治水工事にあった。木曽川・長良川・揖斐川の治水工事の幕命を受けた薩藩は大阪商人から莫大な借金をしてこれを成し遂げ、日本一の赤字藩へと転落。この大幅赤字財政を建て直すべく、調所笑左衛門広郷が発令したのが前出の抜糖死罪令であった。

なお、調所の砂糖を財政立て直しの目玉として扱う強引な改革手法によって、薩藩は日本一の赤字藩から日本一の黒字藩へと様変わりし幕府と対峙できる雄藩へと押しあがっていくのであった。

現在の伊仙町犬田布岬の戦艦大和の慰霊塔のある集落で起きた犬田布騒動は、こうした治水工事を遠因とする薩藩の過酷な圧政を背景とした百姓一揆であった。

騒動が勃発したのは、西郷隆盛が徳之島から沖永良部島へ流罪となった翌年の元治元年(1864年)。村人の1人が砂糖の出来高があまりにも少ないことから横流しの嫌疑をかけられ身代わりの者が拷問を受けると、それに義憤を感じた村人が立ち上がったのだった。

砂糖の勝手販売が許されたのは明治五年で、島民に多少の利益が出るようになったのは、明治四十年頃。大島信用販売組合が設立され、全農民がこの組合に加入し、砂糖の委託販売と必需物資の販売を行い、また小口金融を信用部で行うようになってから暮らしが改善される。

明治後半になると、島から中央政府とやり合える人物を輩出すべく教育に注力し、大正初期に亀津村は東大出身者数日本一を誇るようになった。

参考文献;「伊仙町誌」「徳之島町誌」「仲為日記」(南方新社)「奄美糖業残酷史 徳之島犬田布騒動(劇曲)」(奄美文化の会)「西郷隆盛と徳之島」(図書出版浪速社)

(徳之島コーヒープロジェクト① 鹿児島県・伊仙町篇 参考記事)

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